Leeの特別支援教育

Leeはこう思う

ここには日記などに書いたものから、教育に関するものをのせます。




子供の金銭教育  (2003年5月13日)

先日、テレビで子供に対する金銭教育についてやっていた。
今、子供の時から金銭感覚を養おうという動きがあるそうだ。

放映では、そのコツとして
@お小遣いだけでなく、服、靴、文具、お菓子などいろんな物を自分で買うようにする。金額は例えば月に(年令×400円)
A小遣い帳つける。厳密さより長続きするように・・・。
B毎月1割を貯金させ、目的(自分がしたいこと、欲しい物)を決めておく。

実際にやった家庭では、子供は失敗などをしながらも、自分で管理する力がついたり、貯金をするようになったそうだ。
また、家計で子供に使う金額が少なくなったそうだ。

私の家の場合も、息子達は自分で稼ぎ、管理するようなって、金銭管理が上手になった。
小学生、中学生の時から関心を持つのはいいことかもしれない。
泳げるようになった!  (2001年9月24日)  
   

ある男の生徒が泳げるようになったのでうれしい。

わたしは先週の金曜日から、その男の子を指導することになった。
その生徒は、自分からはなかなか泳ごうとしない。

手をかくことや、ばた足を教えたが、どうも水が恐いようだ。
そこでわたしは、彼のペースで、リラックスムードでやることにした。

とにかくほめる。
手を4回かいたらほめる。そのうち6回かけるようになる。
ばた足を教える。練習すると、泳ぐスピードがあがる。ほめる。

水がこわいので、ゲーム感覚で顔を水につける練習。
「目を開けよう!」 開けたらほめる。
玉を拾うゲーム。拾ったらほめる。

遊んだり、泳いだりしているうちに、何と8回〜10回くらいかけるようになり、足もばたばた。
スピードもアップ。
以前は、ばたついていた泳ぎが、スイスイになってきた。
水が恐くなくなって、浮かんで泳ぐことのこつを体感したらしい。
よかった!

でも、私の指導はここまで。
だって、わたしは息継ぎができない。
この男の子と同じレベルなんだもの。
同じレベルだから、うまがあったのかな?
東京に行って考えたこと (2001年5月7日)

今回の東京行き(孫をほうもんした)ではいろいろなことを考えさせられた。
1 育児
孫を数日みて思ったことです。
特に都会では、小さな子どもを持つ親にとって、子育ての環境は決して良くありません。
小さな子は泣いたりさわいだりするもの。しかしアパート暮らしであれば階下や隣に気を使う。
小さな子が思う存分泣いたりさわいだりできない環境って、きゅうくつですね。
「静かにしなさい!」と叱らなければいけないのは大変です。せめて公園くらいで思いっきり元気にさせてやりたいと思いました。
うちの孫がいるところは公園と緑に恵まれていました。これは最高の環境です。
子どもの数を増やしたければ、公園と保育所を・・・。

2 交通
電車を乗り継いで池袋に行ったのですが、エスカレーターは昇りのぶんしかない。
降りる時には、カートをもち、赤ん坊を抱いて降りるというつらいもの。
これでは車椅子の人ももちろん通れません。
赤ん坊や子連れの人が出かけられない町って変です。
交通や町のデザインをする人も、もちろん大臣も、赤ん坊と一緒に町に出る経験を必ずすること。
学生や生徒に奉仕活動を言うなら、自分も赤ん坊やと一緒に、または車椅子で、外に出て下さい。

3 子持ちの女性が働ける環境を・・・
子育てでしばらくブランクがあっても、働きたい女性は多い。また、その能力を活用しない手はない。
保育所、幼稚園を充実しすれば、女性は働く、税金を払う、男性もほっとする、女性の視点から生活が充実する、子どもは社会性がつく・・・。
いいことが多いと思います。

いろいろ不満はあるものの、東京はありとあらゆるものがそろい、魅力的な町です。
特に老後はいいかもね。
将来は東京に行くというコースもあるのだと、楽しみが増えました。
「講座 心理療法」河合隼雄さんに聞く  (2001年2月5日)

質問:不登校や学級崩壊がどのくらい増えたというようなデータは的なアプローチは?
河合:そういうのはマスコミに出ているし。僕らは個々のケースにこだわる。「個別に徹して、普遍に至る」と言っている。
こういうときは、こうすれば直る、というような一般的なマニュアルは、機械だったら言えます。でも、人間が相手の時は、おのおのの個性があり、自由意志を持っているんだから、一概にこうだとは言えない。
現代は人間を機械みたいに扱いがちですね。親の中には、自分の子どもの自由意志でさえもコントロールできるのが「良い親」だと思っている人が多い。・・・子どもをコントロールしすぎると、子どもは「悪いこと」を小出しして成長していけない。そうしてある時「悪いこと」がどっと噴出してくる、ということがありえます。

「個別に徹して、普遍に至る」。いい言葉ですね。障害児教育では特に考えたい。また、中坊さんのいう、「現場から考える」という考えと通じると思う。
太字の部分、「親」と「教師」と置き換えられるところもありますね。気をつけたい。
みんなと同じことをしない  (2000年10月25日) 
                  
 
  
NHKテレビで考えさせられる番組が2つ。

一つはクローズアップ現代。
農政に振り回された農家の話題。ある時は農地を広げるように推奨され、同時に減反を言われ、最後には米価が下がってとまどっている農家。

一つは、アメリカの株価大暴落の話。ケネディ大統領の父親も出てくる。
人々は株価が上がるのにあおられ、一般の人々までは借金して手を出す。そして突然暴落。

2つの話を聴いていると、全員が同じ方向に行ってしまうことのこわさを感じる。
ちょうど船で全員が一方サイドに行ってしまい、転覆するように・・・。
世の中、自己選択、とか自己責任とか言われているが、個人が「誰かが言っているから・・・」とか「みんながしているから」とかいって、同じことをすることは、いずれは危険なことになる、ということだ。
教育も同じであろう。文部省がこういうから・・・というだけで、同じことをしていればいいものではないだろう。
流れはするどくとらえなければいけないが、同時に、基本も大事にしなければ、見失うことも多い。
常に自分で考える、という姿勢が大事だろう。

そう言えば、今度ノーベル化学賞を受賞した白川さんも、日本では主流というほどではなく、外国で評価されたそうだ。政治でも、学問でも、色んな分野で今の主流ではない人々が活躍し始めている。
社会の中で育てる (2000年10月12日)       
      
 
  
今日は職場見学。3年生が現場実習をしている実習先のうち、3カ所をマイクロバスで回った。私たち教員は行き慣れたところであったが、生徒や保護者にとっては初めての場所もある。
最近は授産施設、更生施設ともすぐに入れるわけではなく、待機しなければならないところも多いので、保護者は見学に熱心な様子でした。
私のクラスの生徒はまだ現場実習の経験はないのですが、来年このようなところでしっかり働けるかな?と気の引き締まる思いでした。

放課後は生徒が児童施設に入っているので、様子を見に行きました。
集団の生活にもかなり慣れてきたようです。
中学部、高等部になると、身体的、精神的に思春期に入ります。そのようなときに、このような施設で集団の中で生活することも、社会性をつける上で非常に効果的だなと思いました。
家庭では難しいことも、仲間がやっていると自分もしようという気になるようです。指導員さん達の優しい中にも毅然とした態度にも感心させられました。

よく子どもは家庭と学校だけでなく、社会でも育てなければならないと言われます。
しかし、障害がある子どもは、家庭と学校の往復のみが多くなり、それ以外の社会に触れる機会が乏しくなりがちです。このように見学したり、サークルや団体に属したりすることで、次第に社会性がついていくでしょう。
教育課程に「総合的な教育の時間」をどう位置づける?(7月19日)
   
  
       
教育課程のアンケートの報告会がありました。
中学部長が、アンケートをまとめた資料を、一太郎のスライド(昨日の日記参照)を使って説明しました。
30名弱の回答ですから、まとめるのもなかなか難しい。

最後のまとめで、問題は「総合的な教育の時間」をどう位置づけるかがポイントだ、ということになりました。
やはり、知的障害児教育の中に昔からあった、生活単元学習との関係に、とまどう人が多いようです。
普通教育の考えから入ってきた考えだから、じゃあ、今更、生活単元学習はどうすりゃいいの?というところ。

私は「総合的な教育の時間」は、今のIT革命や、国際化、グローバル化に対応するには取り入れるしかないと思います。
生活単元学習は元々は、子供の生活の中から題材を取り上げ、課題解決学習的にやっていこうというものでした。子供の発見や解決などを大事にしたものだったと思います。しかし、今は行事単元といった形で、少し形骸化しているところがある。
また、例えば、情報や国際、環境などは、入れようという視点が欠けがちになる。

それなら、「総合的な教育の時間」ということで、新しい袋に入れたがいいような気もします。
やはり、コンピュータや国際、環境、福祉、など、新しい問題は、既存の物の中に割り込ませようとしても難しいものです。
このように流行り的にしないと広がらない堅さが、教育界にはあるように思います。
その上で、週5日制に向けて、教育課程を新しく構築するしかないでしょう。
その中で、コンピュータは「コンピュータの時間」や「情報の時間」することも必要ですし、それだけでなく、教室に黒板と本があったように、いつでもそばにコンピュータがあり、それを鉛筆や本やテレビと同じく、道具としてどの時間にも使えるようになるといいと思います。
「国家目標を失うこと」朝日新聞より いとうせいこう  作家(7月13日) 

今回の雪印の事件に関して、牛乳の摂取は国策だった。国家的な目標に対して全員が疑いもなく走る構図が今まであった。
しかし、それが完全に意味を失ったことが今回の事件につながる。
働いていることのモチベーションがどこかで国家への奉仕と重なっていた度合い、その度合いが高い集団であるほど、現在問題を起こしやすい。警察、教員、原発関連・・・。
これらの集団は、自分たちはいったい何のために精度の高い仕事をするのか、その動機を失っている。
そういう時にノスタルジックな国家への忠誠を要請することは解決にならない。
とすれば、新しいモチベーションの創出しかない。それが日本の緊急かつ最重要課題だ。
意外に出口はコミュニケーションの中にないか。労働サービスの受け手との直接的なやりとり。事実それが欠けた現場、密室化した集団から先に腐敗している。
売買やサービスの現場。そこから離れるほど意欲は失われていく。
IT技術によるコミュニケーションは、そうした意欲無き密室を開けるためにこそある。現場のためにこそある。

雪印でも良心的に仕事をしていた人は多いでしょう。しかし、一部の人の保身や自分大事の姿勢のせいであんなことになった。
もう少し、現場で働く人、消費者の声を聞いていたら違ったでしょう。
教育現場にいる私にとっても含むところの多い時評です。


一人一人に合わせた授業  双方向的な関係(7月5日)

   
  
            
国数では3人の生徒がそれぞれの学習をした。
1名は「プリント教材」を使って数を数える学習。1名は九九の学習。それぞれ画面を見て答えを紙に書き、クリックして答あわせをしている。「九九の学習」で私の読む声を聞いていた生徒が「先生、はやすぎるよ」 ムムム・・・
その後、メールがきているのに気づき、全員がメール用の文章を書いた。
コンピュータを使うと一斉授業でなくなる。各人が自分にあった学習をすることが多くなる。
それは今までの学習の形から言うとバラバラでいい加減な感じにもなる。
しかし、コンピュータやインターネットを使った学習が多くなると、次第にこの形式が増えるのではないだろうか。
一斉授業というのは、一部の人間にとっては無理に合わせていたところがあるだろうから、コンピュータで自分にあった学習ができるならその方を喜ぶだろう。しかし、はっきり言って3人がそれぞれバラバラの授業というのは、こちらも良い授業をしたような気がしないから困ってしまう。

テレビで福島の水族館でサンマの飼育に成功した話があっていた。
さんまは一般的な魚だが、非常にデリケートで、今まで水族館で育てたことはなかったそうだ。
この水族館では、数匹の稚魚から育て、頭を打てばなぜか考え、明かりを暗くし、産卵するには温度を何度にしたらよいか調整し、魚の様子を観察しながらサンマを増やしてきた。世界初なのだ。
すごいことだと思う。
さんまに答えを聞きながらやるからできる。さんまが快適なように考えるから、飼育成功という答えが出る。

新聞には「再現された一方的関係」という題で劇作家の山崎哲さんが書いている。(朝日5日)
「女性監禁」の佐藤被告が、「話し相手になる相手が欲しかった」と述べたことから、一方的な関係は、母親が佐藤被告を一方通行的にやってきたことをコピーしたのだろう、と述べている。

どちらのケースからも、人間関係は(いや、魚と人間でも)、特に教育では、一方通行の関係でなく、双方向的な関係が大切なのだということが分かる。

しかし双方向的な関係って本当に難しい。自分は正しい、相手が間違っている、と思うのはしょっちゅうです。深く反省。


My name is(6月10日)  

今日の新聞より(朝日2000.6.10)
私の名前をローマ字で書くときには「SHIN TERUYO」となるそうです。
今まではたいてい「名前ー姓」でしたよね。それを「姓ー名前」としたいと、国語審議会が提案したそうだ。
中国や朝鮮の人の名前は、その国の慣習通り「姓ー名前」だそうだ。
日本は明治半ばに西洋の習慣に合わせ「名前ー姓」が普通になったようだ。
それを、今回自国の慣習通りに「姓ー名前」にしようと提案している。
わたしの自己紹介はMy name is Shin Teruyo. となります。 

養護学校の下校指導  6月6日

今のクラスで2名の生徒が下校指導を受けた。
それまではうちの方が送迎していたが、下校だけでも自立の練習をしようということになった。
保護者としっかり連絡をとりながら行うことになる。

A君の事例は
1 教師がバス停まで送る。バスが来て生徒が乗ったら、降りるバス停で待つ母親の携帯に「何番のバスに乗りました」と電話する。
2 母親がバス停で迎え、一緒に家まで帰る。
これを数回繰り返した。
3  慣れたら、家まで一人で帰る。
一人で帰れたときには「ばんざ〜い」でした。
現在は、電話連絡もいらず、一人で帰っています。一人で帰るようになって、自信がついたのか、その後の動きも活発なものになってきました。

B君の事例
現在指導中です。バスの乗り換えがある事例です。
1 バス停まで送り、○○行きのバスに乗るのを見届ける。携帯で母親に「何番のバスに乗りました」と電話する。
2 母親は○○で生徒を迎え、一緒に次のバスに乗る。
上手になったら、乗り換えも一人でできるようになるでしょう。

こつは
1 携帯というのがあるので、何かあれば電話でき便利ですね。
2 迷子になったときのため、迷子カードのようなものを持っておく。家と学校の電話番号を記入。また、NTTで、電話に差し込めば、すぐ自宅にかかるテレカもあるそうです。
3 本人が電話を掛けられるように練習しておく。
4 うまくいったらほめたり、バスでのマナーについて話したりする。

できる人は一人で登校できることは、自立につながる大きなできごとです。そのことで保護者の負担も軽減します。
最初、保護者の不安はありますが、連携を図りながら、ゆっくりと指導をしていきます。


体罰(6月4日)
   
  
           
新聞記事より
今日はコンピュータ関係ではなく、「障害者施設の体罰防止」について
障害者施設での体罰や人権侵害を防ぐために、厚生省がサービス共通評価基準を策定した。具体的には
身体拘束や暴力、無視など体罰防止に関する質問項目は@禁止のマニュアルがあるかA日頃体罰がないことを確認しているかB利用者への接し方の研修をしているかC体罰を行った職員の処分規定があるか
の4つだそうだ。
これは施設のこ話であるが、おなじ障害者に関わるところとして、養護学校で働く我々も心しなくてはいけないと思う。
自分の気持ちや考えを言葉で言えない子供もおり、私たちはつい、大人の考えや感情を押しつけることはないか。この子の将来のため、という名目で、無理を押しつけていることはないか。
「子供の甘い」「きびしい」ということの考え方は、さまざまである。教師間も他の先生の指導について、正面切っては議論しない。しかし、気をつけないと子供にとって厳しすぎることを要求していることだってあるかも知れない。特に障害児を教育するものは(私も)気をつけたい。

コンピュータ活用授業はとにかく使ってみること。(5月19日)
   
  
             
「パソティア」という「NEW教育とコンピュータ」6月号別冊を買いました。その中に、「パソコン、インターネット活用、陥りやすい失敗」の例として「パソコン、インターネット活用の研究授業を見ると、詳しい先生がいい授業をするので、普通の先生はとてもあんな授業はできないと後込みする。しかし誰も最初はうまく使えないのだから、とりあえず使ってみるのが大切」とありました。
その通りですね。
わたしが授業にコンピュータを使い出して、2年しかたちません。その間に思ったことは、知的障害のある生徒も、生徒によって違いはあるでしょうが、コンピュータに思った以上に興味を示してくれるものです。キーボード操作も、それなりに自分のやり方でできていくんです。もちろん生徒によっては色んな工夫が必要ですが・・・。
今日、コンピュータを使った2度目の授業を受けた女の生徒は、濁音、促音などのやり方をすぐに覚え、ちゃっちゃっと打っていきました。漢字に変換されるのをとても喜びます。打った文章に画像を張り付けてカラーで印刷すると大喜び。時間が終わってもやりたがる程です。
国語の授業というと、今までは漢字を覚えるのには、漢字の書き取りをするというようなものでした。しかし、コンピュータで漢字を使って入力するのも、これからの勉強の仕方だと思います。手で書くことの練習は、宿題にしました。
このようにコンピュータを使って国語・数学など多くの学習ができるようになると思います。ソフトもどんどんできていくと思います。
今まで、後込みしていた先生も、習うより慣れろで、コンピュータが空いていたら使っていけば、子どもが喜んで使いこなしていくはずです。

「インターネットへの入り口はどうあるべきか」大阪教育大学教授 越桐國雄  5月7日 

読んでそうだ!と思った文章があった。「教育とコンピュータ」という月刊誌(学習研究社 1300円)から。
越桐さんは「インターネットと教育」というサイトを4年間(現在は5年間)に渡り発展させた人。おもに次のようなことについて話している.。大阪大学と言えば私がお世話になっている「世界の指導案」もこの大学のセンターが運営しています。
(ピンクはわたしのひとりごと)

★インターネットの学習時の入り口としては主な探索エンジンがあるが、それだけではなく、いろんな人が作ったものがあったがいい。リンク集とは作る人の教育観がある。自分たちに合ったリンク集を使うといい。
その通りだ。私は私が便利と思うリンク集を作ればいいのだ。
★子どもにもわかるホームページがもっとほしい。 そう、知的障害養護学校の子どもが使えるものはまだ少ない。
★最近のホームページを見て感じること。初期の頃は各学校が作ったHPの他に、先生個人が作ったユニークなページがあった。ところが最近は文部省が主導になり、インターネットは上から降って来るというかんじになった。
各学校のHPは技術的にはすばらしくなったが、内容がおもしろくなったかというとそうでもない。立ち上げた後、インターネットを使っていろいろな人とどこまでコミュニケーションがとれているか大事。インターネットの世界には下から盛り上がるエネルギーが必要。 
そうだそうだ。
★著作権やネット上のモラルについて最近は過敏になりすぎているのでは。インターネットの世界では、公開されているwebページへのリンクは自由に行っていいというのが常識だった。しかし最近は「本校のホームページのリンクにあたっては○○○の承認を受け・・・」という文を記した学校が出てきたそうだ。これではインターネットは堅苦しくなる。
そうです!私は「養護学校の作業学習」で「作業学習について書かれたサイト」をリンクするにあたり、今回メールを20出しました。無断でリンクしては叱られるのかな・・・なんて気が小さくて。
しかし、教育では、オープンにしたHPであればリンクし合うのが発展につながるのでは?変な(Hな、とか)サイトのリンクじゃ困るけど。そんな酔狂なことは少ないんじゃないの?


この方の考えは気に入りました。
そして思ったことは、パソコンの素人でも、素人だから言えることを言っていこうということです。子どもも素人です。今から学んで自分なりにいろんなことを見つけていく。その点では子どもも私も同じ。一緒にパソコンを使う喜びを見つけていきたい。これこそ「総合的な学習」じゃないの?
今日はゆっくり休んだので元気がいいぞ・・・。

コンピュータより俳句や絵   ハードパワー、ソフトパワー  4月27日          

今日も、新聞記事から・・・。
4月24日付け朝日新聞より
ソニー社長 出井伸之氏
「新世紀を語る」という企画の中で、出井さんはデジタル革命やソニーがこれからどうしていくのかについて語っている。また、分社化のこと、銀行も兼ねること、業界の垣根が無くなること、などについても述べている。
その中でおもしろかったのは
ーコンピュータとつきあうのはつかれますねー
「まだ機械に能力が足りないからです。無理に機械に追いつこうとせず、自分の好きなこと例えば、俳句や絵や音楽などをやっていたほうがいい。そのうち機械の方が追いつきます。」
ここでも、大切なのはハードよりもソフトだと言っている。

ハードとソフトと言えば、このような言葉も・・・。
4月25日付け朝日新聞より
米国ブルッキングス研究所 須川清司氏
ハードパワー、ソフトパワーという言葉が言われているそうだ。
軍事力や経済制裁を通して行使される「ハードパワー」に対して、強制によらず、魅力によって何かを成し遂げる能力のことを「ソフトパワー」と言うそうだ。文化や法律、会計制度などがこれに当たるという。
例を挙げて、台湾の選挙は民主主義国家として大いに魅力を増した。一方日本はその透明性と説明責任の欠如で、魅力が大幅に下がったそうだ。
魅力という言葉は、出井氏の話とも重なるような気がする。

基本ソフト「リナックス」開発者リーナス・トーバルズ氏「公開が社会変える」 4月26日        

基本ソフト開発者リーナス・トーバルズ氏「公開が社会変える」4月25日付け朝日新聞より
独占禁止法に問われているマイクロソフトの「帝国」と戦う「自由の戦士」といわれているそうだ。今月始めにマイクロソフト社は独禁法に違反していると認定する判決が出た。マイクロソフト社と言えば、わたしも「ウインドウズ」を使っているから身近に感じるが、何しろ「一人勝ち」状態なのでしょう。
それに対して、この人の「リナックス」はプログラムの設計図を無料公開しているそうだ。それによって多くの人が改良や発展に関わってくれ、より安くソフトが作れる。お金を儲けるのが目標でなく、情報を公開し、自由な意見をまじわすことで、大いに発展できるから、ということだ。
そして、イナターネットの未来は「利用者にとって、技術という言葉が無くなる。誰でもが使えれば、技術だと思う人はいない。車の運転と同じようになる」とのこと。
いいことです。
コンピュータを使えるから立派なのでなく、何を発信するかが問われなければならないと思う。
車に乗るのは便利だからであって、それが偉いわけではない。
コンピュータは手段です。目標ではない。
教育界もコンピュータを使える人だけが幅を利かすのでは危険だと思う。コンピュータも大事だが、誰もが使えるような時代になる。それプラスアルファ、とか個性を持ったものも育てたがいい。
教育についてはまた、次のように・・・。
「日本の学校は厳しい教育で知られていますが、創造性を得させるのは難しいでしょう

ひと味違う、ちょっと差をつけた学校ホームページとは・・・  2000年3月9日

鹿児島の養護学校から3名の参観者。どうもホームページを観てこられたらしく「こちらの高等部のホームページは充実しています。」と言っていただいた。ハイスクールニュースが全8号、コンピュータグループで各生徒のページと確かに見応えはある。

きっとこれからはホームページを観てからの参観が増えるであろう。どこに行こうかと決めるためにホームページを観る、あるいは決めてからホームページを観る。いずれにしてもホームページは学校の顔になる。
そこで思うんだけど、学校のホームページは、現在のところは学校要覧の域をでないものが多い。もちろん最初は要覧程度の概要は必要。しかしこれはどこもできる。
次に、各学部の内容をより詳しく。多くの学校は週時程表をのせ、例えば作業学習であればその説明や写真を載せている。また、行事毎の説明や写真。
また、生徒の作品もある。以上は一般のホームページ。

これよりひと味違う、ちょっと差をつけたホームページとは・・・
○高等部では作業学習などをより詳しく、作品、作品の工夫、作業工程、補助具等の工夫が見えるもの。
○生徒の作品も生徒らしさ、味や個性の感じられるもの。個人情報が漏れない配慮は当然。
○研究の紀要をまとめるならその原稿から。

いずれにしても、これからは紀要に注ぐ力と同じ力をホームページに注ぐべき。また、一部の者がやればよいわけでなく、そのための委員会ぐらい設け、プラン、企画を立ててやる。これはコンピュータ管理と同じメンバーだとオーバーワークになる。より多くの先生が技術を身につける。
そのためには、トップが関心を持ち、学校ホームページを学校のみんなの実践や、児童生徒の姿を人々に知ってもらう宣伝の場として考えて欲しい。


英語第二公用語論 2000年3月4日

 夜10時より、テレビで「シリーズ 21世紀日本の構想」というのをやっていた。第1回目の今日は「英語第二公用語論」について日本国際交流センター理事長の山本さんの話。
今度の新指導要領に英語と情報が入ったが、それとその背景を感じられる話であった。
先に言うと私も賛成派。ここの書評に挙げた井上ひさしさんなどは、「もう少し日本語を大切にしてからのこと」と反対しているが、そんな段階ではない。
日本は英語をあまりにも教養主義で扱い、文法に血道を上げ、受験の道具にしすぎた。実用は学問じゃ無いという態度。今じゃトフルではビリに近い成績とか。これじゃ今から世界に日本の良さをアピールしようったって、発信もできない。
と偉そうに言う私だが、英語が専門だったはずの私も、ことHPの英語版も作っていないじゃあ、しょうがないか。
テレビで中学生か高校生かが、パソコンを使って英語を日本語にしていたぞ。ソフトと辞書を使って。こんなが生徒もいる。Leeも「こりゃいかん」と思いました。
早く英語版を作るようになろう!でも、その場合、サイトのタイトルの「何とかなるさ」ってどう言ったらいいの?
ああ!かなわぬ夢となるかも・・・。
アルバムもCD-ROMでデジタル化? 2000年3月6日      
今日は学級でアルバム整理。今までに行事などでとった写真を、一人一人のアルバムに貼っていく。
アルバム整理って難しいものだ。写真を項目別に分ける。日付け順に並べる。レイアウトを考えて貼る。みんなうまく貼るのは難しそう。介護体験の学生と一緒にする。
相棒の先生と「もう画像をCDーROMで残す時代でしょうね。」と話す。デジタル画像を編集してCDーROMに焼き付ける器械も購入予定だそうだ。
まだ、生徒の家庭でもパソコンがある家庭は多いとは言えないが、やがて半数、そして70パーセントなどと増えてくるでしょうから、今からCD-ROMにしても悪くはないでしょうね。画質はいつまでも落ちないし・・・。

猿のカンジ  2000年2月13日

夜、NHKのテレビ番組で、猿のカンジとパンバニーシャが、アトランタのスー博士の研究所でどのような学習をしたかを放映していた。
人間にもっとも近いだろうと言われるこの種が、石器を作り、絵文字をよみ、書き、コンピュータでゲームもする。人間の進化を教えてくれる。
私たちも、子供の学習の仕方を謙虚に細かく見ていったら、緩やかだが一つずつ学習していく過程が見えるのだろう。緩やかだからありがたい機会なのだ。スー博士の言うには、教えるこつは決して教え込まず、楽しみながら会話をしたり、遊んだりするんだそうな。
無理強いしたり、覚えさせようとしてはいけないんでしょうね。意欲が大事でしょうから。
カンジが人の心を読みとれるようになった、と大喜びするスー博士の姿は見習いたいと思います。



文部省の「総合的な学習の時間の実践事例集 2000年2月7日(月)

 文部省発行の「総合的な学習の時間の実践事例集」(小学部編)。立派な本だけど206円。
 これが「本当は学校独自の創意工夫した実践が欲しいから、事例集は出したくないが、希望が多いから出す」というあの事例集だ。まだ。まだ読んでいないが、内容一覧表のことだけちょっと。
全60校。
国際理解12校   情報11校   環境15校   福祉・健康10校   地域24校   興味・関心8校 
ふんふん。そのうちじっくり読もう。だけど、本もいいけど、インターネット上では総合的な学習の時間のサイトがけっこうあって、写真入りで紹介してありますよね。
また、養護学校では生単などとのからみもあるから、これからみんなで考えなければいけないのだろう。



指導案について考える。 
 2000年1月25日
      

指導案について考える。
研究発表大会の授業の指導案の〆切が近づき、U先生がチーフでコンピュータの授業の指導案を書いている。概略できたところで、また一緒に話し合った。本校では本年度「総合的な学習」を視野に入れて授業をしている。
「『指導案』という名前でいいんだろうか?」
「インターネットで調べたら?」
というので調べたら、ありました。「支援案」
「総合的な学習」には目標はない。であれば「指導」という言葉もなじまない。
現に、コンピュータの授業でも、生徒の興味・関心を引き出しながら、ペイント、CD-ROM、ゲーム、ワープロ、ホームページと使うソフトも色々。ホームページのテーマも生徒の主体的な姿勢を大事にする。こちらは支援するという姿勢だ。
もっとも最近は「指導」じゃなくて「支援」ということが言葉狩り的に言われるので、言葉さえ変えればいい、とか言葉を変えなければいけない、という姿勢は、「ちょっとちがうのよね」という感じもするが・・・。
「本時の学習活動」を一応書いたが,研発時にはどうなるか分からない。直前に差し替えようということになった。

こうなると、指導案(支援案)の書き方も今までと少し変わってくるだろう。
特に総合的な学習や、コンピュータを使った学習では、生徒の学びの方向によって臨機応変に授業が変わらざるを得ないように思う。