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    リンリン こうちゃん        

その7の上

作・佐竹弘子  編集・Lee

わが子がダウン症だと分かった時に、お母さんは・・・。これはこうちゃんの出生時のお話です。

 
  こうちゃんのおいたち
 

佐竹ベビー

 今日は記憶を遡って、皓平のおいたちについてお話します。
 平成6年2月5日に3004gで産声をあげました。私は陽介の時も今回もつわりもなくマタニティーライフも順調でした。出産時は「もう生まれたの?」というほどの短時間での安産でした。今、思えば生まれてすぐに泣き出さなかったり顔色が悪かったことが思い出されます。
 私は個人の産婦人科で出産しました。翌日、医師から「ご主人は今日病院に来られますか?大至急話したいことがあります」と言われました。
 医師から「ミルクを吸う力がなく、糖も全く吸えません。ここは産婦人科なので総合病院の小児科に転院させます」と主人に説明がありました。そしてあっという間に私達の赤ちゃんは、救急車で運ばれていきました。病室にいた私は「ピーポーピーポー」という救急車の音だけが聞こえるだけで見送ることもできませんでした。
 私には「心臓は悪くないです。お兄ちゃんと顔がそっくりです。しかし、ミルクを飲めないので、総合病院で詳しく調べてもらいましょう。心配はいりませんよ」と医師から説明がありました。心配で心配でメソメソしていましたが、幸いにも陽介が病院に遊びに来てくれていたので何とか気を紛らわし、一日の大半を搾乳に費やしていました。
 しかし、私の落胆ぶりがあまりにも大きかったらしく、個室で広かったこともあり、実家の母が入院中はずっと泊まって話し相手になってくれました。口では言いませんでしたが、本当に感謝しています。
   
 転院先の小児科では「佐竹ベビー」と言う名前で保育器に入れられました。「佐竹ベビーでは困るので名前を大至急をつけて下さい」と病院から言われました。
 生まれる前から男の子とわかってはいましたが、急に転院はするし心の準備ができず、なかなか名前も決まりませんでした。そして相談の上、歴史が好きな主人が歴史上の人物から一文字もらい、「その1」でも紹介しましたように「皓平」と命名しました。亡くなったひいおじいちゃんは「名字との画数が悪い」としきりに反対していましたが、次男はお婿さんに行くという土地柄のため「婿に行けば、名字が変わるから、ま、いいべ」としぶしぶ納得してくれました。
 そして生後間もない赤ちゃんは「佐竹ベビー」から「佐竹皓平」になりました。

 ダウン症
 
 私は産婦人科を1週間で退院し、初めて皓平の入院する病院に行きました。保育器に入れられ、紙おむつ一つだけつけられた裸の皓平は体中管だらけでした。
 「多血症と言って、血が濃い病気です。これから点滴で血液を薄めます。薄まらない場合には血液を交換します」と医師から説明がありました。
 2日後に病院に行くと「血液を点滴で薄めましたが良くならないので、血液を全部交換しました」と・・・。え?全交換?そんな許可はしていないのに・・・。その頃、テレビでは薬害エイズが問題になっている時期でした。医学に知識がない私は「皓平は大丈夫だろうか」と不安になりました。
 生後17日目に「よくなりましたから退院です。着替えを持って迎えに来てください」と連絡がありました。喜び勇んで主人と陽介と3人で迎えに行きました。すると医師から次のように説明がありました。
「多血症は完治しました。ところで、ダウン症候群って知っていますか?皓平君はダウン症の可能性があるのです。ま、いわゆる知恵遅れのことなんですが。この子の顔を見てください。目と目が離れているでしょ。鼻筋もないでしょ。手のひらは“猿線”なんですよ。寿命も短いんですよね。地域の小学校へは無理ですよ」
 知的障害と肢体不自由の違いもわからない私は何がなんだかわかりませんでした。ただ、涙が出て出て出て・・・。
「1ケ月後に正式に検査の結果が出ます。その時に来てください」
 頭が「ガーン!」とはまさにこのことです。
 帰りに看護婦さんに、「あの、私は母乳が出るので母乳で育てたいのですが・・・」と言うと、「あ、そうですか?でもまだ、吸う力が弱いので無理だと思います」と・・・。じゃ、どうしたらいいの?と不安になりました。
 
 帰の車の中で、皓平を抱っこして泣いている私と、ただ、黙って運転をしている主人。重苦しい雰囲気の中、「こうちゃん、お兄ちゃんだよ。わかる?抱っこしたいな!」と話す陽介の無邪気さが、余計に私の涙を誘いました。
 
 実家で
 
 実家に帰り、食欲も出ず、私はよっぽど暗かったのでしょう。母から「どうかしたの?病院で何か言われたの?」と言われても「別に・・・」としか答えることができませんでした。心配をかけないように黙っているつもりでしたが、逆に私の態度が心配をさせたようです。「心配ごとがあるなら言ってごらん。すっきりするよ。」と母に言われ、渋々、事情を話しました。
「例え、障害があっても皓平には変わりないよ。こんなに皓平はかわいいよ。泣いてばかりいると、陽介にも良くないよ」と言われ、ただ、泣きながらうなずくことしかできませんでした。

「結果が出るのは1ケ月後だ。違うかもしれない」「でも、自信があるから医者も(ダウン症かもしれないと)言ったのではないか?皓平は知恵遅れか・・・」。その繰り返し。考えも堂々巡り。寝顔を見ては泣けてきて泣けてきて・・・。
「陽介は皓平の障害のために結婚できないかもしれない」そんな先のことまで考えて一人ショックを受けていました。一回に200mlも搾乳していた母乳もショックのために少しずつ出なくなり、皓平が母乳を吸う力がなかったせいもあり、あっという間に母乳も止まってしまいました。
 主人は私と陽介が大好きなシュークリームを買って、仕事が早く終わると私の実家に来てくれました。その当時、私は人のことを気遣う余裕もありませんでした。主人は一通り話をして陽介と遊ぶと、「さよなら、また来るよ」と言い残し、一人で帰っていきました。自宅への帰り道、主人もさぞや淋しかったことでしょう。自宅で皓平の様子を家族に聞かれても、口数が少なかったそうです。
 
 そして、いよいよ1ケ月後。
「検査の結果、ダウン症候群でした。気を落とさずに育ててください。念のため1週間後にまた診察を受けてください」・・・。もう相当に気落ちはしています。「誰がひどいこと言ったんだよ!」などと怒りの矛先は医師に向かったり・・・。
 そしてこの病院は自宅から遠い上に、血液を許可なく交換され不審感を抱いていたので、自宅近くの国立大学付属病院に紹介状を書いてもらい主治医を変えることにしました。

 7の下に続く      2002年3月10日作成 
    「Leeの特別支援教育」