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    リンリン こうちゃん        

その7の下

作・佐竹弘子  編集・Lee

わが子がダウン症だと分かり、泣いてばかりいたお母さん。お母さんはどのようにして立ち直っていったのでしょう。

 
  北山の嫁
 
 産後1ケ月が経ち私の体調も回復したため、覚悟を決めて自宅に帰ることにしました。 「覚悟を決めて」というのは隣近所みな親戚というような家庭環境のため、赤ちゃんが生まれるとこぞってお祝いに来てくれる地域なのです。
 私が、第一子の陽介を産んだ時に、「北山の嫁さま、男の子産んでたいしたもんだ!」と言われました。なぜそんなことを言われるのかわかりませんでしたが、「男の子は家やお墓、名字を守る大事な後継ぎだ」という意識が強い土地柄だと後からわかりました。
 
 陽介がハイハイをするような時期になると「もう一人早く産まなくちゃだめだ。陽介に何かあったら大変だっぺ」と地域の人に言われ、反感を持ったこともありました。
 地域の人も心配してくれているのでしょうが、その当時の私は「余計なお世話だ。プライバシーの侵害だ」と思っていました。ですから、「障害を持った子」を産んだ私は、どのようにしてこの環境の中、暮らしていったらいいのかと思うと、いごごちのいい実家からは帰る気にはなりませんでした。
 しかし、皓平の障害をうすうす気付いた祖父母が「いつまでも家族が離れて暮らしてもしょうがないべ。宏明(皓平の父)も元気がなくてかわいそうだ。近所の人も『なんで北山の嫁さまは実家から帰って来ないんだっぺ』って思うから早く帰ってきて欲しい」と言われ、しかたなく帰ることにしました。

 自宅に戻り、生活も落ち着いた頃、大学病院に紹介状を持って診察に行きました。
 染色体の専門だと言う医師から「ダウン症候群というのは、発達がゆっくりなだけです。お兄ちゃんがいるなら子育ては全く同じです。歩みがゆっくりなことで、逆にお子さんの成長をじっくり見ることができますよ。心配はいりません。今は地域の学校に通い、元気にファミリーレストランで働いている人もいますよ」と説明されました。
 私が、「寿命が短いと聞いたのですが?」と言うと「(笑いながら)今の寿命は60歳以上ですよ。それまで僕だって生きている保障はありませんよ。寿命のことは心配しなくて大丈夫です。大事なことは、家族が明るく暮らすことですよ。それが皓平君のためになります」と説明されました。
 そしてその医師は一枚の紙を渡してくれました。そこには「ダウン症のお子さんを持たれた方へ」と書いてあり、親の会の連絡先、本の紹介が書いてありました。早速、本屋さんで本を取り寄せ読んでみました。しかし、アメリカ人が書いたその本は大変古いもので、皓平が告知を受けた小児科の医師の説明と同じような内容が書いてあり、余計に落ち込むばかりでした。
 
 親の会
 
 次に、自宅に近い親の会の役員の方に手紙を書きました。なぜ手紙を書いたかと言うと、まだ電話で話す勇気がなかったからです。
「私の次男はダウン症候群と言われました。どのように子育てをしたら良いかわかりません。親の会に入会させてください」と・・・。
 後日、会報が送られてきました。そこには初めて見るダウン症の子らが元気に笑って映っている写真や親の手記が掲載されていました。涙を流しながら読みました。
 2、3日して、会報を送ってくださった児玉お父さんから電話をいただきました。
「手紙をいただきありがとうございます。私の子どもは小学5年生で地域の小学校に通っていますよ。話しもすれば走ることもできるし水泳だって得意ですよ。自転車にだって乗れますよ。心配はいりませんよ。来月に東京から先生をおよびして赤ちゃんのための体操教室を開きます。どうぞお越しください」と誘われました。
「地域の学校へは行けない」という告知を受けたこともショックの一因だった私は、実際にお子さんが地域の小学校へ通学していると聞き、安堵したことを鮮明に覚えています。今では、この児玉家とは家族ぐるみの付き合いで、子ども達はお泊まりをする仲。皓平の父とは大の宴会仲間で盛り上がっています。

 皓平が2月に生まれて、4ケ月は落ち込む日々でした。「私は世界一かわいそうな人!」と悲劇のヒロインになりきっていました。しかし、私は「皓平を生んだのは私のせい!」などと自分のことを責めたりはしませんでした。自分かわいさの性格の現れでしょうか(笑)。
 しかし、悲劇のヒロインも長くは続きませんでした。なぜなら、陽介が「遊んで!」とせがむから。皓平はお腹がすくと泣き、おむつを変えなければいけないからです。


 受け入れた日
 
 日々の生活に追われ、落ち込む気持ちが薄らぎ始めた6月に、地域の親の会の例会「赤ちゃん体操」に参加しました。その先生は養護学校で音楽の先生をされていた方で、退職後、ご自宅を開放して「音楽教室」を主宰されている先生でした。障害を持つ赤ちゃんから成人までが対象で、音楽を通して心も体も発達するようにと教室を開いていると聞きました。
 私は初めて見る皓平と同じ障害の子らを見て、なぜか涙が止まらず、会の間2時間もの間ずっと泣き通しでした(後にも先にもこんなに泣いていたのは私だけだそうです)。
 最後に先生が私の横にいらっしゃって「どうしてあなたはずっと泣いているのですか?あの子らは、ぼくや私達と同じ赤ちゃんが生まれたから泣いているのかな?と思いますよ。泣いているのなら、赤ちゃん体操を覚えて帰り、自宅で実践されたらいかがですか?」と声をかえていただきました。
 元々、楽天家の私は、「そうか、泣いていても何も始まらないんだ!」と帰りの車の中で大声で言い、すっかり元気を取り戻し気持ちを切り替えました。あまりの切り替えの早さに主人は驚いたようでした。この日が自分の中で「皓平を受け入れた日」だと思います。

 それからの私は、積極的に親の会の例会に参加し、いろいろな人と知り合いになり、わからないことは相談するようにしました。専門家の話も参考になったのですが、経験者の親の話が一番説得力があり、受け入れやすかったように感じました。
 
 また、今までは散歩に行き地域の人に「この赤ちゃんはおとなしいな・・・」などと世間話をされるだけでも、「障害のことを知ってそんなこと言っているのかな?」などと悲観的に考えていました。
 しかし、「皓平を受け入れた日」からは、散歩にも積極的に行くようになり、今まで避けるようにしていた地域の人との挨拶も自分から大きな声でできるようになってきました。少しずつ、生活も明るくなってきて、自分の中でも変化がわかるようになりました。

 生後6ケ月で市の療育センターに申し込みましたが、入園の月齢に達していないことで入園はできませんでした。しかし、療育センターの好意で、週に1回、2時間だけ母子通園をさせてもらうことになりました。
 晴れて、1歳2ケ月の4月に、正式に療育センターに通園が認められ、週3日、母子通園することになりました。私と同じ立場の友達がたくさんできました。たった1年間でしたが、楽しい通園生活でした。障害がある子がいながらも明るく前向きでおしゃれで、イキイキしている、そんな人たちを見ることはとてもいい刺激にもなりました。
 この1年が私自身、皓平の障害を受け入れ、そして前向きに考えることができるようになった成長した1年でした。この時の友達とは今も仲良しで、本音で話せる間柄が続いています。

 その後、2歳2ケ月から私立の認可保育園に通い、現在は養護学校の小学部の2年生まで成長しました。この保育園の4年の生活も私達家族の「絆」や「人は生きるために何が一番大切か」「幼児期に何を一番大事にするか」などと考えさせられた重要な時期でした。皓平の保育園生活の話はいずれ、書かせていただきます。

 皓平といっしょに

 もし、皓平が存在しなかったら、私はいったい何をしていたでしょうか?もちろんこの「リンリンこうちゃん」は存在しなかったでしょう。きっと、陽介の成績だけに一喜一憂するような教育に異常に熱心な、ただのガミガミばばあになっていたことでしょう。
 皓平を通じてたくさんの方と知り合うことができました。どれだけ励まされ勇気づけられたことでしょう・・・。そしてお陰さまで、家族も精神的に強くなり、今は明るく楽しい生活を過ごしています。
 
 これからは少しずつ、自分でできる範囲で、恩返しをしていきたいと思います。
 障害を持つお子さんが生まれたばかりで、お子さんの障害を受け入れられない方、お子さんの障害を信じられない方に、「私もそうでしたよ。落ち込んで悲劇のヒロインでしたよ。でも、それは時間が解決することも大きいし、周りの人に支えられて、今の生活になっています。あなただけではないのですよ。仲間がいるのですよ。悩みがあったら話してくださいね。少しは経験談をお話できます」と声をかけていきたいと思います。
 
 また、私は良くない告知の方法で、必要以上に落ち込むつらい時期を過ごしました。一番最初に、大学病院の医師のような「告知」があれば、もっとスムーズに障害を受け入れ、気持の切り替えもできたと思います。経験者の一人として、医療関係者に告知の方法や子育てに対する親身なアドバイスなども提案していけたらと考えています。
 自分が悲観的に考えていた時には、地域の人たちのことも受け入れる余裕もありませんでした。今、皓平が「リンリン こうちゃん」として一人で遊びに行けるのも、地域の人たちのお陰だと思っています。これからも地域の人たちには迷惑をかけてしまうこともあるでしょうが、お互いに協力し合い仲良くしていけたらと考えています。
 そして、機会があるごとに自信を持って、私達家族の一員で、しかも一番のムードメーカーで家庭を明るくする皓平を、紹介していきたいと思います。
 
  7の上に              2002年3月10日作成  
    「Leeの特別支援教育」