Leeの特別支援教育
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サトくん  

その3

作・高田あや   編集・Lee

サト君は17才の自閉症の男の子。今回はサト君の生い立ちについてお話しします。ちょっと胸が痛い思い出もあります。

おもな登場人物
主人公・次男のサトくん  長男のまこっちくん ママ    パパ(せんべいさん) 

夕焼けが百万ドルの夜景を飲み込みそう! 自宅のマンション・ベランダからハーバーランドを望む
サトの生い立ち 1

 まず、最初にサトの小さい頃のことをかいつまんで話したいと思います。

 1984年(昭和59年)暮れも押しせまる日にサトは誕生しました。
 大阪の総合病院で少し小さめ(2710g)で生まれました。
 2番目だからか安産。分娩室では隣りの分娩台の大騒ぎを観察する余裕すらあって、楽でした。

 何となく不安を感じたのは2日目でした。母乳の吸い方が弱いんです。頭を触ってみると大泉門が異常にへこんでいます。看護婦さんに訴えたところ、「さすがお母さんですね、よく気がつきましたね」とほめられたんだけど、それをきっかけにサトは保育器入り。なんか腑に落ちません。

 新生児メレナという病気・・・ビタミンKの投与ですぐ回復するはずでした。
 ところが、5日目に化膿性髄膜炎になってしまいました。感染したのはごく一般的に空気中にいるばい菌で、防ぐのは困難だったといわれました。これも腑に落ちませんでした。
 すぐさま、K医科大学病院に転院。サトは保育器に入ったまま救急車でお父さんの付き添いで運ばれていき、2日後に私は子どもを連れずに退院しました。

 サトの入院中は毎日母乳を届けました。よく出る母乳は他の赤ちゃんにも飲んでもらったし、サトも日に日によく飲むようになっていきました。
 サトは約一ヶ月で元気になり退院しましたが、その時やっと出生時の体重に戻ったくらいで、まだ小さな赤ちゃんでした。今もそれを引きずっているのか、やせっぽちです。

 入院中に心雑音を指摘され、それからしばらくは一週毎の通院検査。生後半年で精密検査を受け、6mmの心室中核欠損と診断されました。それから最近までは定期的にレントゲンと心電図をとってきました。
 小さい頃は眠らないと心電図がとれず、入眠剤を飲ませてもうまく寝ず、やっとのことで取り終えて家にもどると丸一日ぐっすり眠る。次の日からしばらく昼夜逆転・・・、赤ちゃんの時の苦労はそれにつきました。

 1歳半の頃、上の子や他の子と違うという不安が湧きあがってきました。やっと病気をする間隔が長くなってきた頃でした。
 特別多動というわけではなかったけど、周囲に無関心なのが気になりました。目をあわすことも少なく、指差しはしないし言葉も2、3語がちっとも増えず・・・。
 健診のたびに私は不安を訴えました。いつも答えは「もう少し様子をみてみましょう」というものでした。
 それに加えて、「子どもをわざわざヘンな病気にしてしまうな」という姑の言葉が重くのしかかった頃でした。

 それでもサトは順調には発達せず、とうとう3歳児検診で療育施設を紹介してもらうことにしました。今考えれば、もう少し早く療育を始めたかったと思いますが、仕方ありません。
 週に3回、母子療育を受けることになりました。その頃にはサトは不安の強い子になっていて、家の玄関を一歩出ると絶対地面に足をつきませんでした。
 雨の日には自転車で通えないので、片手にサトを抱え片手に傘をさして・・・、若いからできたのでした。

 療育は少しずつ成果を上げ、サトもずいぶんやりやすい子になっていきました。多動ではないし、自傷行為もありませんでした。ただ、言葉の理解は悪く、発語はほとんどないまま。このへんがなければ健常の子と見かけはかわりません。

 この頃から私のストレスの種は姑の子どもへの接し方でした。
 もともと、考え方がずいぶん違うのですが、とにかくサトを「不憫だ、何でこんなになったのだろう、やっぱり頭がおかしかったんやな」と顔を見るたびに言われるのには参りました。同居を続けて私は体重が10kg減りました。

 これに加えて、兄のまこっちがおばあちゃんに乱暴するようになって、別居を思い立ちました。
 まこっちはとっても大人しい子で、人の喧嘩を見て泣くような子です。その子がおばあちゃんに何か言われると、足で蹴飛ばすようになりました。
 おばあちゃんも「憎たらしい子や」と応酬します。私はその場面がたまりませんでした。
 夫のせんべえさんと相談し、別居を決めました。毎日顔を合わせて嫌な言葉をかけあうより、少し離れた方が優しくなれるような気がしました。(言い訳・・・)

(「サトの生い立ち」の続編はしばらくお待ち下さい。お義母さんのことについては下に載せていますので、お読み下さい。)

ベランダで咲いたチューリップ
 お通夜

 サトの2年先輩のお嬢さんが、ご病気で昨日亡くなりました。
 今日、お通夜に行って来ました。
 彼女は障害自体は軽い方で、専門学校へ通っていたのだけど、途中から養護学校に転入されてきたんだそうです。だから、享年は22歳でした。

 若いです。子どもを亡くす・・・、親にとってとても辛いことです。今日、明日、しばらくは雑事に追われ気も紛れるでしょうけれど、その後がきっと辛い時期になると思います。
 帰り道、1人で電車に乗っていて思い出したくないことを思い出しました。

 今は亡き姑のずっと昔の言葉。 まだ、引っかかっています。

「障害の子は早く死んだ方が親孝行。よかったやないか」
 14年前、サトの同園生が亡くなった時に言った言葉です。
 鉄槌を食らわされたような気持ちになったものです。この人とは相容れないものがある・・・。
 本音とか心の奥底に思わないでもないことを、ズバっと言われたように思ったのも確か・・・。
 でも、そういわれると猛烈な反発が湧き上がってきたんです。こういう子を育てるからこそ、自分の育ちもあるのです。もちろんこれは全ての親にいえること。

「愛情をかけて育てても、先に待つのは苦労ばかり。それなら早く死んであげれば親は育てる苦しみから解放される」とも言いました。
 そうでしょうか?そりゃぁ、思うように育たない、病気はよくする、辛いことは多いですよ。でも親になれば、そういう苦労に余りある、かけがえのないのが子どもなんです。

 またフツフツと昔の嫌な気分を思い出しながら、亡くなられたお嬢さんのご両親の憔悴ぶりを思い起こしたら、何だか安心して家に戻りました。

 「ただいま」と家に入ると、サトがお風呂でジャァジャァ、シャワー出しっぱなしでいました。ウェ〜!!今月お湯代18、000円もかかったんだよ!お湯、止めなさ〜い!・・・サトがいなけりゃつつましい生活ができるのに!
 あ〜あ、やっぱり私にも鬼が住んでる。
 もうちょっと豆まき真剣にやるんだった。
 
 ボウリング 
いけ!いけ!あれれ・・・

 今日は小・中学部の卒業式でサトは「学校、お休み〜!」
 ここのところサトは休日、退屈続きなので、2人でボウリングしに行って来ました。

 平日だものね、誰もお客がいませんでした。そんな中でやったからお店の人の顔がずっとこっち向いてるのよね。
 私も久しぶりだし、元々上手でもないし、参ったなぁ・・・。
 スコアはひどいものでしたよ。3ゲームずつして、私が128が最高。サトは90。

 サトの投げ方は両手で持って横投げ!すごい音がして飛んでいく!
 そぉっと投げてと頼むと言うこときいてくれるけど、それではガーターになるのです。
 ピンが倒れないとサトもつまらないので、もう、黙認です。レーンさん、ごめんなさい!

 さて、私は久しぶりだったので、腰に来ました。きっと膝が使えてないんだなぁ。明後日の筋肉痛が心配です。
 


著者とお義母さんのこと

エッセイ中の2つの話に高田さんのおかあさん(お義母さん・故人)が出てきます。
今回のエッセイを載せるにあたりLeeは「この部分はこのまま載せますか?」とおたずねしました。高田さんは次のように答えられました。

「姑は若い頃、住み込みの看護婦をしていて、40代になってから乳児院に勤めた人です。
どちらも生きることの辛さを知ることが多かったようで死をいとも簡単に口にする人でした。
自分の初めてで最後の入院生活でも殺してほしいと、ずっと口にしていました。生きている事が人に迷惑をかけるから、という理由です。
生きることがそんなに悪いことかしら、と思うと姑のそばにいるのがいつも辛くなりました。」

お義母さんも苦労して生きてこられたのでしょう。また昔の方で、今のように障害児に対する理解ができてはおられなかったのでしょうね。
障害のあるサト君の誕生を素直に喜べなかったお義母さん。その間にはさまれ悩まれた高田さん。
障害児を持つ親御さんの中には、このような悩みを経験された方も多いのではないかと、あえてエッセイに載せました。